東芝・過労うつ病労災・解雇裁判
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行政訴訟(労災不支給取消し訴訟)

平成19年(行ウ)第456号 療養保障給付不支給処分取消等請求事件

平成21年5月18日判決言渡
判決文


  目  次
   主文                            ・・・・・ P1
   事実及び理由                      
      第1 請求                      ・・・・・ P2
      第2 事案の概要                 ・・・・・ P2
         1 争いのない事実             ・・・・・ P2〜3
         2 争点及び当事者の主張         
           (1)原告の精神障害の業務起因性  ・・・・・ P3〜9
           (2)休業補償給付受給権の一部の  ・・・・・ P9
              時効消滅
     
      第3 当裁判所の判断 
         1 争点1について
           (1)判断の枠組み等          ・・・・・ P9〜11
           (2)認定事実               ・・・・・ P11〜P20
           (3)判断                   ・・・・・ P20〜23
         2 争点2について              ・・・・・ P23〜P24
         3 結語                       ・・・・・ P24
   別紙1〜別紙8                       ・・・・・ P25〜33 (省略)

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平成21年5月18日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官
平成19年(行ウ)第456号 療養補償給付不支給処分取消等請求事件
口頭弁論終結日 平成21年2月23日

                 判          決
    埼玉県深谷市常磐町61 クレアーレ東芝ときわ520
          原           告     重  光  由  美
          同訴訟代理人弁護士     川  人      博
          同                 山  下  敏  雅
          同                 原      宏  之
          同訴訟副代理人弁護士    小  川  英  郎
          同                 島  田  浩  樹
    東京都千代田区霞ヶ関1丁目1番地1号
          被         告            国 
          同代表者法務大臣       森      英  介
          処分をした行政庁        熊谷労働基準監督署長
                              大  芦      誠
          上記指定代理人         中  野  康  典
          同                  三  輪  弘  美
          同                  石  田  久  隆
          同                  吉  野      晃
          同                  嶋  田      淳
          同                  嶋  野      寛
          同                  服  部  伸  行
          同                  笹  本  孝  弘

                 主          文
1 熊谷労働基準監督署長が原告に対して平成18年1月23日付けでなした労働者災害補償保険法に基づく療養補償給付たる療養の費用及び休業補償給付をしない旨の処分(ただし,平成14年9月7日以前の休業補償給付を不支給とした部分を除く。)はこれを取り消す。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は被告の負担とする。

                 事 実 及 び 理 由
第1 請求
 熊谷労働基準監督署長が原告に対して平成18年1月23日付けでなした労働者災害補償保険法による療養補償給付たる療養の費用及び休業補償給付を支給しない旨の処分(以下「本件処分」という。)はこれを取り消す。

第2 事実の概要
 本件は,株式会社東芝(以下「本件会社」という。) 深谷工場に勤務していた原告が,精神障害を発症し, 療養と共に休業を余儀なくされ, 当該精神障害の発病は業務に起因するものであるとして, 熊谷労働基準監督署長に対し, 労働者災害補償保険法 (以下「労災保険法」という。) に基づき療養補償給付たる療養の費用及び休業補償給付の支給を請求したが, 平成18年1月23日付けでこれらを支給しない旨の処分を受けたことから, その取消を求めた事案である。

1 争いのない事実
(1)  原告(昭和41年4月28日生)は,平成2年3月, 中央大学理工学部物理学科を卒業し,同年4月,電気機械器具製造等を業とする本件会社に入社して生産技術研究所に, 平成6年10月, 姫路工場に配属され, 平成10年1月, 深谷工場に転勤となった。原告は,深谷工場で,液晶生産技術部アレイ生産技術第二担当に配属となったが,組織変更により,平成13年4月,液晶生産技術部アレイ生産技術担当に配属となった。
 原告は,入社以来,技術者として液晶生産技術プロセス開発等の業務に従事し,深谷工場において,平成12年4月ころから平成13年7月まで,新規の液晶生産ライン開発プロジェクトであるM2ラインプロジェクトの業務に従事し,これと並行して,同年5月から反射製品の業務等にも従事した。
(2)  原告は,自らの精神障害発病が深谷工場における業務に起因するものであるとして,平成16年9月8日,熊谷労働基準監督署長に対し,療養補償給付たる療養の費用及び休業補償給付の支給を請求したが,同署長は,原告に発症した精神障害は業務に起因して発症したものとは認められないとして平成18年1月23日付けで本件処分をした。原告は,同年25日付けで埼玉労働者災害補償保険審査官に対して審査請求をしたが,同審査官は,同年12月22日付けでこれを棄却した。原告は,平成19年2月6日,労働保険審査会に対して再審査請求をしたが,3か月を経過しても裁決がなかったため,本件処分の取消を求めて,同年7月19日,本件訴えを提起した。

2 争点及び当事者の主張
(1)  原告の精神障害の業務起因性
(原告の主張)
ア 原告は,平成12年11月ころから平成13年4月ころまで,M2ライン立ち上げプロジェクト業務のリーダーとして,質量とも過重な業務に従事し,過度の業務上の付加を受けた結果,平成13年4月に適応障害を発症し,その後,同年5月から同年6月ころまで,リーダーとして反射製品の開発やP−DAT(プロセス開発承認会議)の主催等の新たな業務の指示を受け,これらに従事した結果,上記症状を増悪させ,同年6月にうつ病を発症し,療養生活を余儀なくされた。
(ア)平成12年12月〜平成13年4月の間の業務の過重性
 a 業務の量的過重性(長時間労働)
 原告のパソコンのデータ,休憩時間に関する原告の供述等に基づき,
原告の所定時間外労働時間数を計算すれば,以下のとおりで,100時間以上の時間外労働が5か月にわたって継続し,原告の労働の過重性は明白である(特に平成13年3月12日〜同年4月10日の間は,休日は3日,時間外労働時間は150時間45分である。)。
   平成12年12月  133時間22分
   平成13年 1月  120時間50分
       同年 2月  108時間17分
       同年 3月  147時間
       同年 4月  114時間2分
 b 業務の質的過重性(労働時間以外の要素)
 原告の平成12年12月〜平成13年4月の間の業務が過重であった要因は,次のとおりである。第1に,原告がM2ラインプロジェクトのアレイ工程のドライエッチング工程のリーダーを務め,リーダーの業務としてリーダー会議や歩留対策会議への出席と進捗管理を行う等の負荷が加わっていた。第2に,M2ラインプロジェクトは,ポリシリコン液晶の製造を効率化するために基盤サイズがこれまでで最大であり,はじめから量産ラインとして立ち上げるために立ち上げ期間が非常に短い「垂直立ち上げ」であったため,新規性,困難性とも非常に高いものであり,質的に過重な労働であった。第3に,平成13年1月以降,ドライエッチング工程でトラブルが多発し,原告はその対応に追われ,立ち上げが予定より大幅に遅れた過程で,原告の上司らが,原告に対し,スケジュールの前倒しを指示し,激しく叱責する等の圧力を加え,原告にとって業務による負荷が一層過重となった。
(イ)平成13年5月以降の業務の過重性
 原告は,平成13年5月以降,従来の業務に加え,次のとおりの様々な業務を担当した。M2ラインプロジェクトのスケジュールが遅れ,担当者の1人が別部署に異動となり,原告の業務上の負担が増した。そして,原告は,上司の指示により,同月中旬ころ,原告が携わった経験のない反射製品の開発業務のリーダーの業務にも従事した。また,P−DATは,製品の出荷に向け,安全性,コスト等あらゆる視点から開発過程を検討し,承認を得るための会議で,通常であれば準備期間として2,3か月間を要するのに,原告は,上司から,同月31日に開催されるP−DATの主催を指示された。これらの多忙な業務の中で,原告は,同月中旬頃,上司からパッド腐食の対策業務も指示された。
 被告の平成13年5月以降の業務の過重性を無視すべきであるとの主張は失当である。
(ウ)原告の性格についてうつ病発症に考慮すべき個体側要因はなく,精神疾患の既往歴はなく,また,業務以外の心理的負荷が存在せず,精神疾患発症について業務外の要因はない。
(エ)以上によれば,原告が平成12年12月ころ〜平成13年4月ころの間の過重な業務により精神疾患を発症し,同年5月,6月の過重な業務によりそれが増悪した。原告の疾病は,発症,増悪とも業務に起因するものである。
イ 業務上外判断の在り方
 被告は,業務上外の判断に当たり,「心理的負荷による精神障害等に係る業務上外の判断指針」(以下「判断指針」という。)のみを基準にして主張している。しかし,判断指針はあくまで1つの参考に過ぎず,業務上外の判断は,原告の労働実態と症状の経過をよく調べ,その具体的状況を前提に,専門的知見を参考にして総合的に判断すべきであり,失当である。また,本件は,判断指針に基づいても,総合評価「強」として業務上と判断されるべき事案である。
(被告の主張)
ア 業務起因性に関する法的判断の枠組み
 精神障害の発病が業務上のものと認められるためには,精神障害の発病と業務との間に条件関係及び相当因果関係が肯定されることが必要である。条件関係を肯定するためには,環境由来のストレスと個体側の反応性,脆弱性との関係で精神破綻が生じるという「ストレス−脆弱性」理論を前提とし,業務上の一定以上の大きさの客観的に意味のあるストレスが精神障害の発病に寄与しており,当該ストレスがなければ精神障害は発病していなかったとの関係が高度の蓋然性をもって認められる必要がある。そして,相当因果関係が認められるためには,@当該業務による負荷が,平均的な労働者,すなわち,日常業務を支障なく遂行できる労働者にとって,業務によるストレスが客観的に精神障害を発病させるに足りる程度の負荷であると認められること(危険性の要件),A当該業務による負荷が,その他の業務外の要因に比して相対的に有力な原因となって,当該精神障害を発病させたと認められること(現実化の要件)が必要である。
イ 判断指針
 旧労働省は,業務による心理的負荷を原因として精神障害を発病し,あるいは自殺したとする労災保険給付請求事案が増加傾向にあるため,精神障害等の労災認定に係る専門検討会を設置し,精神医学,心理学及び法律学の専門家に専門的見地からの検討を依頼した。旧労働省労働基準局長は,上記専門検討会の報告書を踏まえ,精神医学,心理学等の医学的知見に基づき,判断指針を行政通達の形で示した。業務上外の判断に当たって判断指針に依拠するのが合理的である。
 判断指針は,対象疾病をICD−10第X章「精神および行動の障害」に分類される精神障害とし,@対象疾病に該当する精神障害を発病していること,A対象疾病の発症前おおむね6か月の間に,客観的に当該精神障害を発病させるおそれのある業務による強い心理的負荷が認められること,B業務以外の心理的負荷及び個体側要因により当該精神障害を発病したとは認められないことの要件のいずれをも満たす精神障害を労働基準法施行規則別表第1の2第9号に該当する疾病として取り扱うこととする。業務による心理的負荷の強度については,別表1「職場における心理的負荷評価表」を指標として,当該精神障害の発病に関与したと認められる出来事の強度をT(日常的に経験する心理的負荷で一般的に問題とならない程度の心理的負荷)〜V(人生の中でまれに経験することもある強い心理的負荷)のいずれに該当するかを評価し(具体的出来事の平均的な心理的負荷の強度をT〜Vで評価し,心理的負荷の強度を修正する視点に基づいてT〜Vの位置づけを修正する必要がないか検討する。) ,その出来事に伴う変化等に係る心理的負荷がどの程度過重であったかを評価した上,業務による心理的負荷の強度を総合評価 (「弱」「中」「強」) する。他方,業務以外の心理的負荷の強度については,別表2「職場以外の心理的負荷評価表」により評価し,また,既往歴等の個体側要因が客観的に精神障害を発病させるおそれのある程度のものかについて検討する。業務上外の判断に当たっては,上記各事項を検討し,これらと当該精神障害の発病との関係について総合判断する。
ウ 原告の精神障害発病の業務起因性
 原告は,平成13年4月ころ,うつ病を発病したと認められる。
原告の疾病発症前おおむね6か月間に生じた業務に係る出来事をみると,@平成12年9月アレイSG組織のドライエッチング工程の3名のリーダーになった,A同年12月から2台の機械装置が搬入され,平成13年1月10日の試作品製造開始に向けて,業務量が増加した,B同年2月ころから担当する工程でトラブルが度々発生したという出来事が認められる。@の出来事は,判断指針別表1の「自分の昇格・昇進があった」に該当し,平均的な心理的負荷の強度はTであるところ,心理的負荷の強度を修正する必要はなく,出来事に伴う変化等については,特に検討すべき事項は認められない。Aの出来事は,同別表1の「仕事内容・仕事量の大きな変化があった」に該当し,平均的な心理的負荷の強度はUであるところ,心理的負荷の強度を修正する必要はなく,出来事に伴う変化等を検討しても,特に過重であるとは認められない。Bの出来事は,同別表1の「ノルマが達成できなかった」を類推し,平均的な心理的負荷の強度はUであるところ,上司等が原告の担当工程について特に大きなトラブルはなかった等と供述していること等からすると,その心理的負荷の強度はTに修正する必要があるが,当該出来事発生以前から続く深夜に及ぶ恒常的な長時間労働が認められることから,心理的負荷の強度をUに再修正することが相当であり,出来事に伴う変化等を検討しても,特に過重であるとは認められない。他方,発病前おおむね6か月間に業務以外の心理的負荷要因は見当たらないが,原告の性格傾向(まじめ,仕事に細かい,頑固である等)や健康状況(疲れやすいという自覚症状,不眠症,慢性頭痛,神経症の診断)は,原告の脆弱性を表しているものと考えられる。
 以上からすれば,原告の精神障害発病に係る業務による心理的負荷は,総合評価が「強」に至らない。そして,業務による心理的負荷の総合評価が「強」とならない場合,「ストレス−脆弱性」理論によって形に現れない脆弱性という個体側要因が原因であると理解されるべきである。
 なお,原告は,業務の量的過重性を主張するが,原告の疾病発病前6か月間の時間外労働時間は,平成13年3月が92時間12分,同年2月が71時間51分,度年1月が82時間13分,平成12年12月が88時間20分,同年11月が28時間36分,同年10月が時間外労働時間なしであり,また,十分な休暇も取得していること等から,原告について,当該疾病発病前6か月間において,生理的に必要な最小限度の睡眠時間を確保できないほどの長時間労働をした日が数週間にわたって連続したものとは認められず、労働時間自体が当該疾病の発病原因となるおそれがあるとは認められない。原告が,うつ病発症以後の平成13年4月以降の出来事を含めて原告の心理的負荷の強度を評価しているのは失当である。

(2) 休業補償給付受給権の一部の時効消滅
(被告の主張)
 原告は,平成16年9月8日,熊谷労働基準監督署長に対し,平成13年9月4日〜平成16年7月30日の1061日間中973日間分について休業補償給付の支給を請求しているが,平成13年9月4日〜平成14年9月7日の369日間中336日間分については,労災保険法42条により時効消滅している。
(原告の主張)
 原告が労災申請の手続を行う主体を使用者と誤って理解していたこと,原告は平成13年4月以降抑うつ症状等の深刻な状況にあり,権利の性質上その権利行使を現実的に期待できる状態にあったとは言い難いこと,本件会社が原告の疾病を労災と認めず,原告に敵意を抱いていたため,事実上総裁申請の手続をすることが期待できなかったことから,原告の休業補償給付受給権の消滅時効の起算点は,平成16年7月ころとすべきである。
 熊谷労働基準監督署の担当官は,労災申請について「労災申請を行うならば,健康保険組合の負担している7割分を返還してから申請するように」と誤った説明を行い,労災申請を事実上困難にし,被告が原告の権利行使を妨害したから,被告の消滅時効の主張は,信義則違反,権利濫用である。
 原告は,同年9月には労災申請手続を行ったのであるから,原告の休業補償給付受給権は,消滅時効に一切かかっていない。

第3 当裁判所の判断
1 争点(1)(原告の精神障害の業務起因性)について
(1) 判断の枠組み等
ア 労災保険法に基づく保険給付は,労働者の業務上の負傷,疾病,障害又は死亡について行われるところ(同法7条1項1号),労働者の負傷,疾病,障害又は死亡を業務上のものと認めるためには,業務との間に相当因果関係が認められることが必要である(最高裁第二小法廷昭和51年11月12日判決・判例時報837号34頁参照)。また,労災保険制度が,労働基準法上の危険責任の法理に基づく使用者の災害補償責任を担保する制度であることからすれば,上記担当因果関係を認めるためには,当該負傷,疾病,障害又は死亡が,当該業務に内在する危険が現実化したものであると評価し得ることが必要である(最高裁第三小法廷平成8年1月23日判決・判例時報1557号58頁,最高裁第三小法廷平成8年3月5日判決・判例時報1564号137頁参照)。
精神障害の発症については,環境からくるストレスと個体側の反応性,脆弱性との関係で精神的破綻が生じるかどうかが決まるという「ストレス−脆弱性」理論が広く受け入れられいると認められる(乙1〜3)から,業務と精神障害の発症との間の相当因果関係が認められるためには,ストレス(業務による心理的負荷と業務以外の心理的負荷)と個体側の反応性,脆弱性を総合考慮し,業務による心理的負荷が,社会通念上,客観的にみて,精神障害を発症させる程度に過重であるといえる場合に,業務に内在する危険が現実化したものとして,当該精神障害の業務起因性を肯定するのが相当である。
イ 原告は,原告が平成13年4月に適応障害(ICD−10第X章「精神および行動の障害」F4に分類される障害)を発症し,その後症状が増悪して同年6月にうつ病(同F3に分類される障害)を発症したと主張し,被告は,原告が同年4月ころにうつ病(同F3に分類される障害)を発症したと主張しているので,原告が同年4月ころにICD−10第X章「精神および行動の障害」F4に分類される障害を発症したことについては当事者間に争いがないといえる。そこで,原告の精神障害の発症と同年4月以前の間に相当因果関係が認められるかを検討する。

(2) 認定事実
 前記争いのない事実に加え,各項目のかっこ内に掲記の証拠及び弁論の全趣旨によれば,本件の争点に関しては,以下の事実を認定することができる。
ア 原告の業務内容等(甲13,14,37,38,40〜52,54,55,62〜66,70〜84,86〜93,95,161,162,乙31,32,34〜38,40,41,43,44,46〜54,59,60,70,71,93,原告)
(ア) M2ラインプロジェクト等
 本件会社は,深谷工場において,平成11年4月ころからM1ラインを量産稼動させ,平成13年9月ころからM2ラインを量産稼動させている。M1,M2ラインは,いずれもポリシリコン液晶の液晶ディスプレイ製造ラインであり,コンセプト(液晶ディスプレイに用いるアレイ基板の製造方法,その製造に用いる設備等)はCVD工程(ガラス基板上に半導体や絶縁体を付着させる工程)以外ではほぼ同じである。もっとも,用いるガラス基板がM1ライン(400mm×500mm)よりM2ライン(550mm×670mm)の方が大きく,M1ラインが第2.5世代,M2ラインが第3世代と呼ばれ,ポリシリコン液晶で第3世代のサイズは,当時,世界最大であった。本件会社は,アモルファスシリコン液晶(結晶ではないシリコン膜でトランジスタを作るもので,結晶のシリコン膜でトランジスタを作るポリシリコン液晶より性能が低い。) については,平成6年に既に第3世代のサイズの立ち上げを実施していた。
 M2ラインプロジェクトは,準備プロジェクトと立ち上げプロジェクトに分かれ,平成12年4月ころ準備プロジェクトが,同年11月ころ立ち上げプロジェクトが発足した。深谷工場では,立ち上げプロジェクトのため,部をまたがって組織が形成され,F工場長がプロジェクトリーダー,液晶生産技術部参事のMがプロジェクト推進リーダー,同部アレイ生産技術第一担当グループ長のHが幹事,同第一担当主務のTがアレイ幹事,同部アレイ生産技術第二担当グループ長のF(原告の直属上司)がアレイサブグループのリーダーであった。
M2ラインは,月産2万5000枚の規模で人を集中させて短期間での成功を目指す「垂直立ち上げ」が行われ,同年11月初旬〜平成13年4月末を第1期として先行の3台の,同年2月初旬〜同年4月末を第2期として後続の4台の立ち上げ期間とし,全期間で6か月間の立ち上げ期間中に,第1期の立ち上げを行いながら第2期の立ち上げを行うスケジュールであった。一方,M1ラインは,月産2万枚の規模で,その立ち上げ期間は,第1期(5台)が平成10年10月中旬〜平成11年2月末,第2期(2台)が同年7月初旬〜同年11月中旬,全期間で1年1か月間が立ち上げ期間であった(実際には予定より早く開始されたので,それ以上の期間があった。)
 なお,液晶ディスプレイは,2枚のガラス基板に液晶を挟み込んだ構造で,片方の基板にはトランジスタ回路が,もう一方の基板にはカラーフィルターが形成され,前者をアレイ基盤といい,これを製造する工程をアレイ工程という。アレイ工程では,トランジスタをガラス基板に作るため,金属膜,半導体膜,絶縁膜をガラス基板全面に形成して,必要な場所にのみ膜が残るように加工する作業を繰り返すことになり,この加工作業で膜を削る工程をエッチング工程という。エッチング工程は,ドライエッチング工程とウェットエッチング工程に大別され,ドライエッチング工程とは,膜をフッ素等のガスに曝して膜を削る方法をいう。反応性イオンエッチング(RIE)は,ドライエッチングの1つであり,M1,M2ラインのドライエッチングはすべてRIEであった。
(イ)原告のM2ラインプロジェクトへの関与等
 原告は,本件会社に入社以来,ドライエッチングを専門に業務に携わってきた。そして,上記のM1ラインの立ち上げに携わった際には,ドライエッチング担当ではなかったが,M2ラインプロジェクトにドライエッチングとして携わるようになった。
 原告は,M2ライン立ち上げプロジェクトで,アレイサブグループの中のPEP・加工工程プロジェクト中のドライエッチング工程プロジェクトのリーダーとなった。そのため,リーダー会議や歩留対策会議への出席,担当工程の進捗管理業務にも従事した。ドライエッチング工程プロジェクトの技術担当者には,原告の他,T及びUがいた。原告がラインの立ち上げのリーダーになるのは,初めてであった。
 ライン立ち上げの手順は,@クリーンルームへの製造設備搬入,据付,機器連結,機能復元,A安全審査,Bガス出し,Cメーカーのプロセス確認,DCIMテスト,E本件会社のプロセス確認,FATロット流品であるが,原告等本件会社担当者の主たる業務は,メーカーによる条件出し(上記C)を受けたロット流品の条件出し(上記E)である。
原告の担当するドライエッチング工程では,新規の装置が導入され,M1ラインでは一体であった高周波の出入口である誘導体天板が,M2ラインでは,強度の関係で4分割され,間に十字の金属のハリがある構造となった。そのため,発生するプラズマ状態が異なるようになり,原告等は,これに適するように圧力等の条件を見つける必要があった。
(ウ)M2ライン立ち上げプロジェクトのスケジュール等
 原告作成の「MoW−RIE工程立ち上げ計画書」によれば,M2ライン立ち上げプロジェクトのスケジュールは,平成12年6月「パイロットライン」として,平成13年1月10日に「スルー流品開始」(スルー流品とは,試作品を試験流品すること。),同年2月中旬に「ATロット」(ATロットとは,製造工程の承認を得るための試験ロット。ここで実際に生産を開始することができるかが判断され,この後に生産が開始される。)とされ,RIE(M2立ち上げ機)については,平成12年12月初めに装置の「搬入」,同月後半に「プロセス開始」,平成13年1月10日に「流品プロセスfix」という予定であった。
 ところが,平成12年8月以降,平成13年1月10日のスルー流品のための仮のプロセス条件の完成度が高ければ,1回の試験流品で修正を行い,同月23日からの試験流品をATロットと位置付けて,製造工程の承認を得ることが十分可能であるとの本件会社の判断から,スケジュールを早める方向が担当者に示され,平成12年12月1日時点で計画が変更され,平成13年1月23日に「量産開始」とされた。さらに,同月9日時点では,同月10日に「先行確認ロット搬入」,同月17日に「P−DATロット投入」(P−DATロットはATロットと同じ意味。),同月23日に「量産開始」とされ,試作品の検証期間が,同月10日〜同月17日の1週間とされた。
 しかし,実際は,同年3月1日の時点で,計画では同年1月23日とされていた1台目の装置の生産開始が遅れ,P−DATロット投入については4週間以上遅れている状況であった。
(エ)ドライエッチング工程でのトラブル等
 原告等担当者は,平成12年9月から,装置メーカーのデモ機を用いて事前評価を始めた。そして,深谷工場では,同年12月,M2ラインの新規の装置が搬入され,原告等担当者は,立ち上げ,流品開始のために,プロセス評価を行う等した。
 原告の担当するドライエッチング工程では,同月下旬ころ,除外装置排気ダクト変形等のトラブルが発生した。その後,平成13年1月,エリプソ(光学式膜圧測定器)が正常に作動しなかったこと,エッチングの対象となるサンプルを作る成膜装置(原告以外の者の担当部分)の立ち上げが遅れたため,サンプルの供給が遅れたこと等から,原告は,予定の検証期間にすべての検証を完了させることができなかった。その他にも装置にいくつかのトラブルが発生した。
 また,同年2月初旬,石英天板割れ不良,ALFパーティクル発生不良が発生した。これらのトラブルは,装置の天板にハリがあることによって発生したものである。そして,同月中旬には,装置のトラブルだけでなく,MoWシート抵抗のアッシング条件依存という製品のトラブルも生じ始めた。同月以降,ドライエッチング工程だけでなく,他の工程でも異常があったため,会議が頻繁に開かれ,原告も参加した。そのうち,土曜日である同月10日に開催された会議では,原告は,祝日である同月12日午後9時に対策業務を行うよう指示され,同日午後8時〜同月13日午前零時30分の間当該業務に従事した。また,同月17日付けでM2アレイ歩留改善計画が作成され,M2ラインのアレイ工程における問題点が指摘され,良品率改善のための計画が示され,原告は,「MoW膜厚大により,2EtchTEOS膜減り量が過大となり,n−ドーブ量オーバー」等の3つの問題点の対策の担当となり,それぞれの対策を実施することが求められた。
 原告は,上記対策の1つである「2Etch,3Etchエッチング条件見直し(マージン確認)」について,T主務からスケジュール作成を指示された。原告は,約15日間で条件出し業務を行う内容のスケジュール案を作成して,同月25日に開催された会議で報告したが,M参事から「これでは遅い。」と言われ,計画を前倒しにするよう指示され,これに対し,原告が「これ以上早くはできません。」と答えたところ,上司から返答はなかった。ところが,後日,上司であるHグループ長から各部課長宛に原告の担当する工程が最重要又は最優先である旨の電子メールが送信され,さらに,原告は,T主務から,同年3月6日,同月8日に開催されるM2アレイ工程サブグループ定例ミーティングでRIEマージン調査結果(条件出し)の報告をするように電子メールで指示された。しかし,原告は,条件出しのデータの提出期限が具体的に決められておらず,同日の会議で上記報告ができなかった。T主務は,原告に対し,「ドライが最重要なんだ。」「どうして報告しなかったんだ。」「何が何でも(データを)出せ。」「今日中に詳細なスケジュールを書いて出せ。」等と述べて厳しく叱責した。原告は,同月9日午前1時ころまでにスケジュールを作成し,同スケジュールに合わせて,同月13日,同月16日に進捗状況を報告することを求められた。
 原告の担当するドライエッチング工程では,同月中旬に,装置の異常放電不良,水漏れのトラブルがあった。このうち,異常放電不良は,装置の天板にハリがあることによって発生したものであり,原告は,このトラブルのために流品を止めるため,連絡所を作成して製造部門の承認を得なければならなかった。
 なお,装置のトラブルは,原告等の本件会社担当者が第1次的に対応し,それでは対応しきれない場合,本件会社の担当者は,メーカーの担当者に対応を依頼し,メーカーの担当者と打合せを行ったり,トラブル処理に立ち会って確認することとなる。
(オ)製造部門への引渡等
 原告の所属する技術部門は,1台目の装置を立ち上げたら,それを製造部門に引き渡すこととなっており,原告は,同月20日ころから約1週間で,同月末の引渡の際に必要な厚さ約10cmのファイル1冊の書類を作成した。もっとも,製造部門に引き渡した後も,未解決のトラブルの対応は,技術部門が行っていた。原告は,上記書類作成と同時に,他の4台の装置の立ち上げにも対応していた。
 原告は,同年4月末,試作品のデータを収集し,条件変更のための承認の資料をまとめ,同年5月から新条件での流品についての承認を得た。
イ 原告の労働時間(甲14〜35,37,39,55,161,162,乙7,8,17,28,31,32,34,35,37,39,40,43,59,65,70,原告)
 原告の労働時間に関する証拠として勤務表(乙28)があり,これを基にして原告の平成12年11月〜平成13年4月の間の労働時間を認定することとする。もっとも,同勤務表は,原告が当時作成したものではなく,原告の労働実態を反映しているとは言い難い上,勤務時間が長かったため原告が社バスに乗れないことがあったこと,原告が疲労のため禁止されていた自家用車通勤したことがあったこと,他の同僚も遅くまで仕事をしていたことがあった旨供述していること,上記アの原告の繁忙さ等からすれば,労働時間が上記勤務表より長くても不自然ではない。他方,原告は,平成12年12月〜平成13年4月の間毎日午後11時以降まで勤務していた旨供述するが,客観的裏付けはなく,同僚のTの供述(乙43)によれば,Tは午後11時より前に帰社していた日もあったことが窺われ,原告が毎日午後11時以降まで勤務していたとまでは認められない。したがって,原告が上記勤務表から認められる労働時間よりも長時間の労働をしていたと認められ,客観的な裏づけがある範囲でこれを加算することとし,具体的には,上記勤務表記載の労働時間外に原告が自ら業務のために更新したデータが認められる範囲で労働時間を修正することとし(甲14〜33),原告の供述に照らし,データの更新の時刻から15分遅い時刻をもって終業時刻とする。ただし,原告の労働時間が実際にはこれ以上に存した可能性を否定するものではない。また,休憩時間については,原告の供述に従い,所定の休憩時間中,午後0時〜午後1時の1時間の昼休みは休憩時間とし,午後6時45分〜午後7時15分の30分間については,午後9時までに退社できる場合は休憩時間とせず,それ以外の場合は休憩時間とし,午後10時15分〜午後10時45分の30分間については,休憩時間としないこととする。なお,終日出張で,上記勤務表には,労働時間が明記されていない日は,午前9時に始業,午後5時45分終業と扱う。
 以上を前提に労働時間等を集計すると,別紙のとおりとなり,平成12年11月から平成13年4月までの各月の総労働時間数,1日8時間を越える労働時間数の合計,労働日数及び休日数は,下表のとおりとなる。

総労働時間 8時間超の労働時間 労働日 休日
平成12年11月 188時間51分 40時間30分 20日 10日
同年12月 252時間20分 85時間5分 22日 9日
平成12年1月 240時間3分 70時間48分 22日 9日
同年2月 232時間17分 77時間2分 20日 8日
同年3月 260時間53分 75時間23分 24日 7日
同年4月 229時間44分 67時間29分 22日 8日

ウ 原告の性格,健康状態等(甲121の1,乙27,40,43,55,56,61〜64,70,81)
 原告は,明るく,勝気な性格で,真面目に仕事に取り組んでいた。原告に精神疾患の既往は認められず,両親,兄及び弟は,いずれも健康である。
 原告は,平成2年3月の雇入時健康診断で,既往歴として耳下腺腫瘍,自覚症状として疲れやすいとされている。原告は,平成9年6月の定期健康診断で,「朝,何となく気分がすぐれない。生理痛がひどい。」と訴えて経過観察とされ,平成10年5月の定期健康診断では特段不調を訴えなかったが,経過観察とされ,平成11年5月の定期健康診断で,「生理痛がひどい。」と訴えて経過観察とされ,平成12年5月定期健康診断で,「いつもからだがだるく疲れやすい」「いつも首の痛みやひどい肩凝りがある」「いつも生理痛がひどい,また生理不順である」と訴えて経過観察とされ,平成13年6月の定期健康診断では特段不調を訴えなかったが,経過観察とされた。
 原告は,平成12年6月以降,深谷工場診療所を受診し,不眠症等と診断され,同年7月以降,Y医院を受診し,慢性頭痛(筋収縮性頭痛)と診断され,同年12月以降,Hクリニックを受診し,神経症と診断され,平成13年4月ころに抑うつ状態を発症したと推定される等した。
エ 医学的意見(甲160,163,167,乙16,30,97)
 天笠崇医師は,原告は,平成13年4月に適応障害を発症し,同年6月中旬にICD−10の中等症うつ病エピソード,DSM−W−TRの大うつ病を発症したとし,判断指針に従って判断しても原告がうつ病発症前約6か月間に経験していた労働による心理的負荷の総合評価は「強」である等として,うつ病の発症の原因は,原告が発症前に従事していた業務と考えるのが相当であるとする。
 埼玉労働局地方労災医員協議会は,原告は,平成13年4月ころ,ICD−10のうつ病エピソードを発病したとし,判断指針に従って検討し,@平成12年9月アレイSG組織のドライエッンング工程の3名のリーダーになったことは,「自分の昇格・昇進があった」に該当し,平均的な心理的負荷の強度は「T」で,強度の修正は要せず,出来事に伴う変化等で特に検討すべき事項は認められない,A平成12年12月から2台の機械装置が搬入され,平成13年1月10日の試作品製造開始に向けて業務量が増加したことは,「仕事内容・仕事量の大きな変化があった」に該当し,平均的な心理的負荷の強度は「U」で,強度は修正せず,出来事に伴う変化等で特に評価すべきものは認められない,B平成13年2月ころから原告が担当する工程でトラブルがたびたび発生したことは,「ノルマが達成できなかった」を類推適用し,平均的な心理的負荷の強度は「U」であるが,トラブルに特段の困難性は認められないこと,ペナルティが課されていないことから,心理的負荷の強度を「T」に修正するが,恒常的な長時間労働が認められることから,心理的負荷の強度を「T」から「U」に再修正し,出来事に伴う変化等で特に評価すべきものは認められない等とし,総合評価は「強」に至らないとして,業務起因性が認められないとする。
 O医師の意見は,上記埼玉労働局地方労災医員協議会の意見とほぼ同様であるが,原告の病態は,新しいタイプのうつ病であったとする。

(3) 判断
 本件の原告の一連の業務態様を総合的に観察して看取できることは,当該業務の内容,スケジュール,業務遂行に当たってのトラブルの発生とそれに対する本件会社の対応等,労働時間という要因が,原告の心理的負荷に重層的に影響を与え,時間を追って亢進させていったということである。
 第1に,原告の業務自体の心理的負荷について検討する。上記認定事実によれば,原告は,長年ドライエッンングを専門にし,M1ラインとM2ラインとでコンセプトがほとんど同じであったが,M2ラインのガラス基板は,ポリシリコン液晶では当時世界最大であったこと,そのため,原告の担当するドライエッンング工程では,天板の構造の異なる新たな装置が導入されていたこと,原告としては,異なるプラズマ状態に対応する新たな条件を見つける必要があり,新規性の高い業務であったことという各事情が存する。これらは,上記プロジェクト自体が,原告にとっては,心理的負荷を与えるに十分なものであったことを指摘することができる。
 第2に,スケジュールについて検討する。上記認定事実によれば,M2ライン立ち上げプロジェクトは,「垂直立ち上げ」のため,立ち上げ期間が短期間に設定されていたこと,M2ライン立ち上げプロジェクトは,M1ラインと比べても立ち上げの全期間が短縮されていたこと,第1期の立ち上げと第2期の立ち上げとが一部重なるスケジュールとなっていたこと,平成12年6月時点の計画では,スルー流品開始からATロットまで約1か月間あったのに,その後短縮され,最終的には,試作品の検証期間が1週間とされたこと,そして,平成13年3月時点では,生産開始,P−DATロット投入が大幅に遅れることとなったものである。以上のような過程を見ると,担当者である原告にとって,M2ライン立ち上げプロジェクトは,当初から非常にスケジュールが厳しく,その上,スケジュール短縮等一層厳しくなり,切迫した状況となって真理的負荷を増したことが指摘できる。
 第3に,作業のトラブル発生について検討する。上記認定事実によれば,原告の担当するドライエッンング工程での天板の構造の異なる新たな装置が導入され,新しい装置の導入により発生した石英天板割れ不良,ALFパーティクル発生不良,異常放電不良のトラブルに対応することが求められたこと,特に平成13年2月以降,次々とトラブルが発生し,装置のトラブルには最終的にはメーカーの担当者が対応するとしても,少なくとも第1次的な対応は,本件会社の担当者の原告が行っていたこと,原告は,複数のトラブル対策の担当者とされ,特に条件出しについて,複数の上司から計画の前倒しを指示されるとともに,重要な問題であると指摘されたのである。上記のとおり,原告の関与した作業が切迫した状況下にあって,多くのトラブルが発生し,それに対応する責任を負わされるという上記事情は,原告の心理的負荷をさらに重くしたものと認められるのである。
 第4に,上記認定事実によれば,原告は,他の業務をしながら平成13年3月末までに引渡の際に必要な相当大量の書類を準備しなければならなかったこと,それに関連して,T主務からは,これまで経験したことがないほどの厳しさで叱責され,対応を迫られたこと,本件会社が同年4月以前に,原告に対して,具体的な支援を講じたとは認められないことという各事情が認められるのであり,これらの事情は,作業が切迫して追いこまれた原告の心理的負荷をさらに亢進させたものと言わなければならないのである。
 第5に,原告の労働時間を見ると,上記のM2ライン立ち上げプロジェクト開始時の平成12年12月〜平成13年4月の間,具体的証拠が存する分でも,上記認定事実のとおりの担当長時間の労働時間であり,深夜に及ぶ労働も少なくなく,十分な休暇を取得していたとはいえない状況であった。
 以上のように,原告の業務を巡る状況を見ると,原告は,新規性のある,心理的負荷の大きい業務に従事し,厳しいスケジュールが課され,精神的に追い詰められた状況の中で,多くのトラブルが発生し,さらに作業量が増え,上司から厳しい叱責に晒され,その間に本件会社の支援が得られないという過程の中で,その間,長時間労働を余儀なくされていた。以上の原告に対する心理的負荷を生じさせる事情は,それぞれが関連して重層的に発生し,原告の心理的負荷を一貫して亢進させていったものと認められるのであり,上記のような原告の業務による心理的負荷は,社会通念上,客観的にみて,精神障害を発症させる程度に荷重であったといえる。
 他方,業務以外の心理的負荷は,特に認められない。また,個体側要因として,以前から疲れやすい等の自覚症状があり,不眠症,頭痛,神経症等の診断を受けているが,これをもって原告の脆弱性等があるとまで評価するのは相当でない。しかも,このうち,神経症の診断は平成12年12月以降であり,M2ライン立ち上げプロジェクト発足後のことであり,後の精神障害の前駆症状とも評価し得るものである。したがって,原告の業務以外の精神障害を発症させるような要因があったとは認められない。
 以上によれば,原告の業務による心理的負荷は,社規通念上,客観的にみて,精神障害を発症させる程度に過重であり,原告の精神障害の発症は,業務に内在する危険が現実化したものといえ,その余の点を検討するまでもなく,原告の精神障害について業務起因性を認めることができる。
 業務起因性を否定する埼玉労働局地方労災医員協議会及びO医師の意見は,上記の心理的負荷の強度について,個々の要因を分析して,必ずしも強度の心理的負荷とはいえないと評価するものである。上記の個々の分析的な評価自体を肯じる余地はないわけではないが,上述のとおり,本件における原告の心理的負荷は,M2ライン立ち上げプロジェクトに関与し始めた時点から,原告は,上述のとおりの複数の要因に重層的に晒されたことに大きな特色があるのであり,上記の意見のように,分析的,個々的にして必ずも強度でないという評価をすることが相当であるとは考えられない。したがって,上記意見は,前述の業務起因性を認めるという判断を左右するものではない。
 以上によれば,原告の精神障害には業務起因性が認められるのであり,業務起因性を否定する本件処分は,違法であるといわなければならない。

2 争点(2)(休業補償給付受給権の一部の時効消滅)について
 原告は,平成16年9月8日,平成13年9月4日〜平成16年7月30日の期間について,熊谷労働基準監督署長に対し,休業補償給付の支給を請求しているが,労災保険法42条により,原告の休業補償給付受給権中,平成14年9月7日以前の部分は,2年の時効期間経過により時効消滅したといえる。
 原告は,上記消滅時効の起算点は,平成16年7月ころとすべきである旨主張する。労災保険法42条の消滅時効の起算点については,権利行使可能時,つまり,権利行使につき法律上の障害がなく,かつ,権利の性質上その権利行使が現実に期待できる時と解するのが相当である。原告の起算点に関する主張の理由は,原告の誤解,病気,本件会社の非協力的態度であり,いずれも事実上の障害に過ぎないし,権利の性質上その権利行使が現実に期待できない事由とはいえない。原告は,被告の消滅時効の主張の信義則違反,権利濫用を主張するが,本件の消滅時効については事項の援用を要せず(会計法31条1頁),時効による債務消滅の効果は確定的に生じるものであり,仮に原告主張のような熊谷労働基準監督署担当官の対応があったとしても,同担当官が原告の権利行使を妨害したとはいえず,被告の消滅時効の主張が信義則違反,権利濫用とはいえない。したがって,原告の上記主張は採用できない。
以上によれば,本件処分のうち,平成14年9月7日以前の休業補償給付を不支給とした部分は,結論において相当である。

第4 結論
以上によれば,本件処分(平成14年9月7日以前の休業補償給付を不支給とした部分を除く。)は,違法であり,取消を免れない。よって,本件処分の取消を求める原告の請求は主文の限度で理由があるのでこれを認容することとし,主文のとおり判決する。

     東京地方裁判所民事第36部

                    裁判長 裁判官  渡 邉  弘

                          裁判官  田 中 一 隆





     裁判官田辺暁志は,転補につき,書名押印することができない。

                    裁判長 裁判官  渡 邉  弘



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